仮初の探偵 -誕生編 ACT01-





1.急変



 家の中をバタバタと忙しく動き回る。
 外はすっかり日は出ていて、学生も社会人も、動く時間帯だ。
 大学生の蓮子は、学校へ行く準備をし、忙しく動いていた。
 鞄に荷をつめていると、「あれぇ?」と、ひょんな声をあげながら、自分のデスクの周りを探しだした。
「確かに、ここに置いたんだけど……」
 何度も、鞄や引き出しを開けたり、デスク上の棚を調べたりしていた。しかし、一向に見つかる気配がない。
 焦りながらも探し続けて呟いた。
「やっぱり見つからない。課題のレポート……」
 大学の授業の課題であった、レポートを探していた。少し部屋を出た際に、何故か行方がわからなくなっていた。
 何度も探し、時間だけが過ぎていくと、蓮子は気づいた。
「いっけない! もうこんな時間!」
 時刻は午前八時近くだった。
 レポートを諦めた蓮子は急いで支度し、学生寮から出て、大学へ向かった。
 学生寮から出て、バスで三、四十分。大学前で降りた蓮子は、早足で向かった。

 大学、校門前――。

 時刻は午前八時四十五分過ぎ。キャンパス内は学生がまばらに歩いている。登校時間には間に合った。安心して、ゆっくり歩き始めると、蓮子はある人物を発見する。
 同じ大学の一人だった。蓮子は彼女の肩を叩いて、元気よく朝の挨拶をした。
「おはよっ」
 しかし、彼女は叩かれた肩に気づくことなく、蓮子を無視して、先を歩いていった。
 蓮子は近づいて再度、話しかけた。
「な〜にシカトしてんのよ。ご機嫌斜めなわけ?」
 そう蓮子が訊ねても、彼女は気にせずに玄関へ向った。
「な、何よ。私、何かしたっけ?」
 無視の理由に心当たりが無い蓮子は、仕方なく、一人で教室に向うことにした。

 教室――。

 今朝の無視の原因に、内心気にかけながらも、蓮子は授業に参加することにした。
 間もなくして、開始のチャイムと共に教授が入ってきた。
 蓮子は焦った。一時限目から例のレポートの提出があった為だ。
 授業が始まると、次々と生徒がレポートを提出している中、蓮子は教授にこんな言い訳をした。
「あの〜、レポートなんですが。昨日確かに書いたんですけど、どこかにに飛んでいったみたいで……」
 ふざけにも似た言い訳に、怒られると思ったが、教授は意外な言葉を口にした。
「誰だ。君は?」
 教授は怪訝な目をしている。
 蓮子は一瞬驚いたが、教授が怒っているものから来ているものだとして、改めて謝った。
「すみません。レポート忘れました」
 蓮子が頭を下げていると、そこへ声がした。
 今朝の生徒だった。
 生徒は挙手をして、教授に言った。
「その人。部外者です。私、今朝言い寄られました」
 すぐさまふり向いて、蓮子は言った。
「あんたまで何言ってるの? いくら怒っているからと言って……」
 すると、教授は蓮子の背を押して、廊下は押しやった。
「ここは学生が来るところだ。おとなしく帰れば、警察沙汰にはしない。早く帰りなさい」
 蓮子は思わず声をあげた。
「え、ちょ、ちょっと……! 私ですよ、宇佐見蓮――」
 教授は蓮子を追い出すと、扉を閉めて授業に戻った。
 教室から追い出された蓮子は、扉をドンドンと叩いて反論する。
「どうなってるの! 何なのよ!」
 扉は押さえられている。教授は男だ。蓮子より力がある。到底かなわないだろう。
 扉越しに声がする。
「いい加減にしないと、警察を呼ぶぞ」
 蓮子は手を止めた。警察沙汰になるのは一番厄介なので、蓮子は立ち去ることにした。
(一体何なのよ……)
 納得のいかないまま、仕方なく蓮子は学生寮に戻ることにした。
 とんぼ返りの蓮子はバスに乗った。バスの中で、思わず「ハァ」と大きなため息をついては、思い出して苛立った。
(まったく何よ。ほんとに……)
 膨れ顔のままバスの時間を過ごすと、学生寮に着いた。

 学生寮――。

 寮内に入り、ふて寝をすることにした蓮子は、さっさと自室に向かった。
 すると、また異変が発生する。
「あれぇ?」
 蓮子は部屋の扉の前で立ち往生していた。
「カギが開かない……」
 センサーにカードキーを近づけてみても、何の反応も無かった。仕方なく、蓮子は管理人室へ行き、管理人に事情を説明することにした。
 管理室へ向かい、蓮子は事情を説明した。管理人が来てくれるようだったので、一緒に部屋の前まで来てもらうことにした。
 玄関の扉の前に来ると、管理人が工具を準備しながら、ふと、尋ねてきた。
「そういえば授業はどうしたんだい?」
 蓮子は誤魔化した。
「あ、いや。今日は休もうかなって……」
 管理人は笑ってみせた。
「サボりかい。黙っててやるから、程々にしておきなよ」
 蓮子は少し安心した。管理人は普通の対応をとってくれたからだ。
 笑って蓮子は応えた。
「えへへへ……そうします」
 しかし――。
 管理人が、部屋の扉を確認すると、予想しない言葉が返ってきた。
「んん? ここは前園さんの部屋じゃないか」
 蓮子は思わず聞き返した。
「前園さんって誰です?」
 管理人は態度を急変して言い寄ってきた。
「名前は?」
 場が凍った。
 蓮子は思わず、上ずった声で応えた。
「う、宇佐見ですけど……」
 管理人は険しい顔だ。
「そんな名前の人は、この寮に居ない。悪いが、こっちへ来てもらおうか」
 管理人が蓮子の腕を取ると、蓮子は抗った。
「な、何するのよっ。みんな私のこと知らないふりしてっ」
 手を払われた管理人は、警告した。
「部外者なら、出て行ってもらおうか。それとも泥棒か?」
 蓮子は思わず声を荒げる。
「そ、そんなわけないじゃない!」
 大声を大声で返される。
「じゃあ早く出ていけ!」
 蓮子は頭にきた蓮子は、先ほどよりも大きな声で怒鳴った。
「言われなくても、そうするわよっ!」
 蓮子はそういい残してその場を足早に去っていった。

 都内――。

 街中を歩きながら、蓮子は考えていた。
(一体、何だっていうのよ。何もかもがおかしいわ)
 すると、携帯を使っている、サラリーマンが蓮子の目につくと、蓮子は自分の携帯を取り出した。まずは友達のメリーに相談してみるのが先決だと。そう思ったからだ。
 電話を手にし、メリーにダイヤルする。しかし、繋がらなかった。メリーとは学科が違うので授業中か、また例の件だろうと思っていた。
 今度は実家に電話した。しばらくすると、今度は繋がった。蓮子はすぐさま用件を話した。
「もしもし、お母さん。今大変なことになってるんだけど……」
 すると蓮子の母親は、驚いた。
「お母さん……? うちに子供はいないですけど。間違い電話じゃないんですか?」
 まただ。異変に思った蓮子は声を強めた。
「そ、そんなはず無いわ! 確かにお母さんの声だわ。私よ! 蓮子よ!」
 親元から離れて暮らしているとはいえ、親の声を忘れるはずがない。それでも、蓮子の思いとは違った答えが返ってくる。
「私に蓮子という知り合いもいません。もう一度、番号を確かめてみては?」
 蓮子は必死に呼び止めた。
「お母さん! 間違いじゃないわ! お母さん、お母さん!」
 すがる声で母を呼び止めるも、告げられた声は冷たいものだった。
「……悪いですけど、切らせてもらいます」
 蓮子の思いとは別に、電話は無情にも切れた。
「一体……何が、どうなっているのよ……」
 蓮子はショックで立ちつくしたのち、ゆっくりと歩き出した。行く当てもないまま……
 街を彷徨う様に歩いていた蓮子は、街に明かりが灯るまで、長い時間を過ごしていた。
 時刻は午後八時を回った。
 蓮子は途方にくれていた。
(現金ぐらい用意するんだったな……)
 蓮子は普段、現金を使わなかった。
 それがミスだった。
 自分のサイフに入っていた、カード類は、何故か全て無効になっていた。
 電車に乗ることも、銀行からお金を下ろすことも、カードで買い物することも出来なくなっていた。
 蓮子は今までの経緯から、自分の存在が消えてしまったのではないかと思うと、怖くなって泣き出していた。
 俯いて泣いていると、男の声がした。

「おやぁ? どうしたの、お嬢ちゃん?」

 ガラの悪そうな若い男達が、蓮子に近寄って来た。
 その中の一人が、覗き込むように、蓮子に近づいた。
 蓮子は嗚咽しながらも応えた。
「……何でも……無いわ……」
 別の男。金髪の若者が応えた。
「何でも無いってこと、ないじゃん。ほら、泣いてるし」
 何が可笑しいのか、若者達は盛大に笑い出した。
「確かに。何でも無いってことは無いよな」
 蓮子は激怒した。
「なんでもないって言ってるでしょ! さっさと消えてよ!」
 その発言に若者の一人が、食いついた。
「このアマ。下手に出てりゃあ、いい気になりやがって」
 若者達が蓮子の周りを囲む。
「な、何する気よ……?」
 下卑た笑いをしながら、若者達が言い寄った。
「いいことに決まってるだろ。こっち来やがれ!」
 一人の若者が蓮子の腕を取ると、すかさず蓮子が叫ぶ。
「い、嫌っ! 誰か助けて!」
 羽交い絞めにされ、蓮子は抵抗する。しかし、もがく暇も無いまま、衝撃が走る。
「おとなしくしてろ!」
 みぞおちに、深くするどい拳が入れられると、意識が遠のいていく。
(だ、誰か……)
 抵抗空しく蓮子はそのまま気絶してしまった。


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 微かに声が聞こえる。
「……この人は……被害者……助けた……わからない……」
 声に気づいた蓮子は、ゆっくりと瞼を開けた。淡いシャンデリアの明かりが目に入った。そして、ベッドに寝かされていたことに気がつく。
 両手両足が動く。体は自由だ。蓮子は、起き上がろうとすると、咄嗟にお腹が痛んだ。みぞおちの所だった。
「痛っ……」
 その声に反応したように、声をかけられた。女性の声だ。
「気がつきましたか?」
 身を起こして、訊ねられた方向を見てみると、真っ白な肌で黒い服を着たメイドが視界に映った。
 蓮子は思わず「ひっ」と声をあげた。
 メイドの顔は真っ白だ。メイド服からのぞかせる肌は、異常なまでに白い。さらに瞳は赤い目をしていた。まるで人形のような。
 メイドは、気にする様子もなく、優しい声をかける。
「無理をなさらないでください。腹部に打撃があるようですので」
 お腹に手を当てると、違和感がある。手当をされていたようだ。
 メイドを不気味に感じたが、手当てのこともあり、敵意が無いものだと捉えた。それよりも状況の確認が先だった。
 蓮子は軽く頭を振って、意識を覚醒させると、呟くように訊ねた。
「こ、ここは……?」
 別の方向から男の声がした。
「ここは私の船。そして、そのホテル内だ」
 完全に身を起こして男の方を振り向くと、銀髪で黒いマントを羽織った、伯爵風の男だった。マントの裏地が赤い色をしていたので、男は吸血鬼や海賊にも見える。しかし、「そのままでいい」と優しい声をかけてくれた。
 室内は洋風というより、北欧といった方が適切かもしれない。どこかの城や豪邸にいるような。メイドに伯爵……異世界にでも来たのだろうか? そんなことを考えながらも、蓮子はベッドの上で、思い出していた。
「た、確か……私、変な連中に絡まれて……それで……」
 伯爵風の男が言った。
「私は詳しくは知らないが、彼女が助けてくれたようだ」
 人形のようなメイドが軽く頭を下げると、蓮子はそれに反応して礼を言った。
「あ、ありがとう……」
 多少、言葉が詰まったが、メイドはまた礼をし、淡々と応えた。
「私は大したことはしておりません。どうぞ、お気になさらず」
 
 コンコン……
 
 部屋の扉をノックする音が聞こえるや否や、「邪魔するぜ」の声と同時に男が入ってきた。
 赤い甚兵衛の調理服を着た男が入ってきた。普通調理服といえば白が基本だが、まるで血のように全身真っ赤だった。
「飯が出来たぜ……ん? もう起きていたのか。じゃ、先に行っている」
 蓮子を見るや否や、調理服の男はすぐ出て行った。
 蓮子は一瞬だが、男がアジア系の男に見えた。日本人かもしれないと安心した。逆に言うと、メイドとは違い、普通の人間に見えたのでなおさらだった。
 伯爵の男がメイドに言った。
「君、彼女を連れて行ってくれないか?」
 メイドは一礼して応えた。
「かしこまりました」
 蓮子は戸惑いながらも、メイドについて行った。
 二人は部屋を出て廊下を歩いていた。
 廊下は赤いカーペットが続いている。しかし、扉や壁は真っ白で、明かりも柔らかいものだった。伯爵風の男が言ったように、ホテル内だと確認した。
 蓮子はまだ状況がわからないが、少なくとも、身の危険が無いと感じ、少しづつ記憶を整理しようとした。
「ねえ? あの時どうなったの?」
 蓮子がメイドに訊ねると、メイドは振り向くことなく、歩いたままで応えた。
「偶然です」
 蓮子は深く訊いた。
「だから、あの連中に囲まれて……」
 淡々とメイドは応える。
「先ほども申しましたように。偶然通りかかったので、片付けました。助けたのも偶然です」
 自分の傷を抉るような質問に、蓮子は恐れつつも訊ねた。
「か、片付けた、って……?」
 メイドは足を止めることなく続けた。
「貴女様が拉致されそうだったので、暴漢を片づけました。それ以上の問答は、貴女様に必要ありません」
 蓮子はほっとしていた。
 自身の身は安全だ。今はそれ以上のことは、思い出したくもない。それだけだった。
「そ、そうよね。ごめん。変なこと言って」
 メイドはまた、振り向くことなく言った。
「どうぞ、お気になさらず」
 それから、数分後。船の中の広々とした、レストランに到着した。
 大勢の客が居る中、案内されたのは、一般客の少ない場所だった。VIPルームらしい。
 蓮子の視線の先に、先ほどの赤の調理服の男が立っていた。蓮子は改めて男は見た。吊り上がった目つきだが、顔立ちから日本人だと思えた。
 男は顎で、くいっと、メイドに合図した。
 メイドはそれを確認すると、一礼して、蓮子をテーブルに連れて来た。
「どうぞ」
 メイドは椅子を引き、座るようにと蓮子に促した。
 テーブルには一目でわかる高級なフランス料理が並べられている。
 蓮子は戸惑った。
「わ、私。お金なんて持ってないわよ」
 すると赤い調理服の男が言った。
「俺の作った飯が、食えないのか? 料理が冷めちまう。いいから黙って食え」
 乱暴な発言だったが、純粋に厚意があるものだとして、蓮子はまた礼を言ったのち、料理を頂くことにした。
 蓮子はナイフとフォークを手にした。
 フランス料理にはコースとマナーがあるが、そんなことを気にする余裕もなく、目に入った魚のソテーを口に運んだ。
 一口、口にするとすぐにまた一口と、口にしていく。おいしいと思うのを忘れてしまうくらいに。
 朝から何も食していなので、次々とお腹に料理が入っていった。
 高級な料理を味わうことも無く、ただただ、腹を満たそうとする蓮子だった。
 あたたかい……
 急に蓮子は食べるのを止めてしまった。
 メイドは訊ねた。
「どうなされました?」
 蓮子は泣いていた。
「わからないの……自分が誰だか……」
 俯いて、蓮子は涙をこぼす。
 男は、いぶかしげに訊ねた。
「記憶喪失ってやつか?」
 すると蓮子はゆっくりと首を横に振った。
「違うけど……皆が私のことを知らないみたいで。親に電話しても、私のこと知らないって。カードも銀行も使えなくなって、それで……」
 それを訊いた男が、「ふん」と頷いて提案した。
「だったら、今食った分は働いて返せ。それで落ち着くまで、ここに居ろ」
 メイドも同意権だった。
「それが適切だと思います」
 蓮子は驚いて顔を上げた。
「えっ? 私をここに置いてくれるの? 見ず知らずの私を?」
 蓮子が振り向くと、男は背を向けていた。
「今日の所はサービスだ。明日から、忙しくなるぞ」
 そう言って赤い調理服の男はスタスタと去っていった。
 残された蓮子に、メイドは優しく応えた。
「詳しい経緯は知りませんが、今日の所は休んでください。部屋は用意してありますので」
 蓮子はまた泣きながら、応えた。
「ありがとう……ございます……」
 食事を取った後、蓮子は用意されたベッドで、現状を考えることもなく、疲れ果てていたため、すぐに眠りについた。
 蓮子の長い一日が、終わった。


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 次の日――。

 午前九時。
 蓮子は港に停泊している、豪華客船のホテルで一泊したあと、伯爵風の船長の所へ来ていた。無論、メイドも一緒だ。
「昨夜はゆっくり休めたかね?」
 蓮子は笑顔で言った。
「はい。おかげ様で」
 体調は万全だ。
 一晩眠ったことで、持ち前の明るさと元気を取り戻した蓮子だった。
 船長は笑って言った。
「はっはっは。昨日とはえらい違いだ。それで、君の名前は? 憶えているか?」
 蓮子は元気に応えた。
「蓮子です。宇佐見蓮子」
 自己紹介を終えると、船長は蓮子に質問をした。
「では、宇佐見君。昨日彼女から聞いたが、自分の存在がわからない……ということだね?」
 蓮子は不安げに応える。
「はい……みんな私のことが分からないみたいで……」
 船長は、ゆっくりと頷いた。
「ふむ。不思議なこともあるものだな」
 するとメイドが言った。
「それではご主人様。如何いたしましょう? 料理長の話では、ここで働かせてもらうことになっておりますが、部屋までは用意しておりません」
 船長はわざとらしい困った顔をしていた。
「そうだな。ここはあくまでホテルだからな……」
 メイドは提案した。
「では、あの事務所は如何でしょう? ここから少し遠いですが……」
 船長はすぐに了承した。
「うむ。では、早速だが宇佐見君を案内してくれんか」
 メイドは頭を下げて応えた。
「かしこまりました」
 蓮子が問う間もなく、話は決まっていった。
 蓮子は二人に深々と頭を下げた。それと同時に疑問も投げかけた。
「ありがとうごさいます。でも、何で私なんかに、ここまでしてくれるんですか?」
 船長は応えた。
「それは彼女に聞いてくれ。私は彼女に付き合っているだけだ。料理長は、労働力が欲しかっただけだったが」
 蓮子はメイドの方を振り向くと、メイド既に扉へ向かっていた。
「行きましょう。宇佐見様」
 蓮子はあまり詮索するのはよくないと思い、黙ってついて行った。
 二人がその場を後にした部屋で、船長は一人、呟いた。
「やれやれ。彼女の気まぐれにも、困ったものだ」
 そういって、パイプ取り出して吹かし、深く煙を吐いた。
 船長の顔は、何処と無く嬉しそうだった。

 豪華客船から歩いて一時間――。

 今日は休日らしく、街中は人々賑わいをみせている。
 蓮子はメイドに連れられて、とある街に来ていた。
 そんな中、メイドが歩いているのは目立つもので、二人で歩いていく度に、注目の的となっていた。
「ちょ、ちょっと。その格好、何とかならなかったの?」
 メイドは不思議そうに言った。
「と、おっしゃいますと?」
 メイドは気にする素振りもなく、蓮子の疑問が疑問になっていた。
 蓮子は逆に困ってしまった。
「いや、だから。変な風に見られるじゃないかって……」
 蓮子の心境など知らず、メイドは立ち止まって応えた。
「着きました」
 思った通りの答えを聞けず、蓮子は流されるまま応えた。
「……あ、うん。そうなの……」
 蓮子達が到着した場所、それは五階立ての雑居ビルだった。
「これって貸しビルじゃない。それもかなり大きい」
 蓮子の言うように、ビルは企業向けの大きな貸しビルだった。
「ここの三階が事務所になっております」
 蓮子達はビルへ入って行った。
 一階の施設を軽く案内され、エレベーターを使い、目的の三階へやって来た。
 カードキーを使い、蓮子の新しい居住区となる事務所に、二人は入った。
 一つの部屋に蓮子は案内された。
 部屋は前任者が居たのか、備え付けの家具家電はそのままで、ある程度生活感が残っていた。
 蓮子は率直な意見を言った。
「そのまま残っているなんて、あまりいい部屋とは言いがたいわね。夜逃げでもしたのかしら」
 蓮子の立場を考えない発言にも気にせず、メイドは淡々と応えた。
「それはありえません。前の住人は私たちの関係者でしたから」
 あつかましい態度を変えず、蓮子は部屋を見渡した。
「それにしても、こんな大きな部屋に住むなんて……あれ?」
 蓮子は何気なく触れた壁に疑問を持った。
「この部屋、きれい過ぎるわ。まるでハウスクリーニングしたみたいに。埃一つ無いわ」
 壁の縁を指をスーッとなぞり、その指を見てみた。
 何も付いていない。
 蓮子の姑のような言動も気にせず、メイドは応えた。
「昨日、私が掃除しました」
 蓮子は驚いた。
「えっ? だってあの短時間で、ここまで掃除できる訳……」
 メイドは続けて言った。
「宇佐見様と出会う前です。会ったのは、船へ戻る所でした」
 昨日の夜のことではない。
 それよりも、蓮子の嫌な記憶が蘇る。男達に拉致されかけたことを。
 一瞬にして、蓮子の表情が曇った。
 メイドはそれを読み取ったのか、本題に戻った。
「清掃は前の日も、その前の日も。時間に余裕がある時は、ほぼ毎日しております。ご安心ください」
 メイドの対応に、蓮子は安心した。
「……そっか。それならいいんだけど。あんたってすごいのね。あの男達をやっつけちゃうし、掃除もこなすし。掃除人《スウィーパー》ってやつ? あ、そういえば名前。まだ聞いてなかったわ」
 メイドの返事は簡単なものだった。
「メイドです」
 本当にそれが名前なのか? とも思ったが 蓮子は追及をやめた。メイドには恩が大きい。だから、立場をわきまえた。
「ふ〜ん……ま、お世話になってる身だから、深くは聞かないことにするわ。よろしくね。変なメイド」
 わきまえたと言っても、今更態度を変える必要もなかった。
 メイドはスカートの裾を軽く持って、頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 そして、メイドは蓮子に部屋を一つ一つ案内した。
「ここが応接間です」
 応接間は八畳ほどで、デスクの前のテーブルを挟んで大きなソファが二つ並んでいた。
「何か、探偵事務所みたいね」
 メイドは当然のように応える。
「はい。事務所ですから」
 次に蓮子は自室となる私室へ案内された。
 入るや否や、蓮子は思わず驚きの声をあげた。
「うわぁ、広い。って、これじゃ応接間より広いじゃない」
 私室となる部屋は十二畳もあり、そして、申し訳程度に角にベッドとデスクがあっただけだった。
「はい。ここはもともと研究室も兼ねていましたから、広くなっております。ですので、不必要なものは全て処分してあります」
 蓮子は少し唖然としたのち、あることに気づく。
「研究室にしても、広すぎるわよ。私、独り身よ? あっ、貸しビルなら賃貸が……」
 メイドはかぶりを振って応えた。
「必要ありません。このビルのオーナーは私ですから。私の権限で、無償で貸し出し致します。それから、必要なものがあれば、その都度お申し付けください」
 あまりの待遇に、流石にそこまで世話になるわけにいかないと蓮子は思った。
「ちょ、ちょっと。それはありがたいけど、それじゃあんまりじゃない。あんたに何のメリットがあるのよ」
 メイドは不思議そうに言った。
「と、おっしゃいますと? 私個人の意思では不服ですか?」
 蓮子は困ってしまった。
 どうにも、このメイドといると、調子が狂ってしまう。
 しかし、蓮子は本心を言った。
「そ、それは。迷惑だし、逆に怪しいってものが……」
 怪しい……それが本音だ。
 すると、メイドは人差し指てて提案した。
「ではこうしましょう。私の用件を聞いてくれるなら、無償にします」
 蓮子は不安げに言った。
「か、可能範囲で……」
 メイドは、はっきりと言った。
「可能です」
 拾われた身で、ここまでの贅沢は、このメイドのおかげだと。
 そう思った蓮子は意を決した。
「わかったわ。何、用件って?」
 粛々とメイドは頭を下げて言った。
「どんなことがあっても、必ず生きぬいてください」
 一瞬、沈黙が流れた。
 しばらくして、蓮子は口を開いた。
「えっ。それだけ?」
 頭を下げたままメイドは言った。
「はい」
 蓮子は戸惑った。
「そ、そんな簡単なこと……」
 メイドは、少し強い口調で応える。
「簡単ではありません。私の予想では恐らく、大変困難なことになっていると思います」
 蓮子の顔色が変わった。
「……どういう意味?」
 ようやくメイドは頭を上げて応えた。
「少し、街を散策されては? カードは私のをお貸し致します。必要なものがあればこれで」
 胸元のポケットからカードを取り出して、蓮子に渡した。
「何か、問題でもあるの?」
 蓮子の問いを待たず、メイドはさらに折りたたまれた紙を取り出した。
「この街の地図です」
 電子端末のご時世に、紙の地図を渡された。
 蓮子は戸惑い気味で応えた。
「随分アナログね」
 メイドは、少し含みのある言い方で否定した。
「古きよき場合もございます」
 メイドは地図を広げて、指差した。
「ここが現在地点です。そしてこの街が九十九《つくも》市です」
 蓮子はまた驚いた。
「九十九市? ここって京都じゃないの?」
 メイドは不思議そうに応えた。
「教徒? 確かにここの宗教は二分しておりますが、今はその話は無関係では?」
 京都と教徒……話が噛み合ってなかった。
 メイドのボケなのか? とも一瞬思った。
 仕切り直して、蓮子は訊ねた。
「違うわよっ! 私が通ってた大学は京都にあったのよ。それにこの地図、どこの地図よ。まったく持って意味不明だわ」
 メイドは蓮子に再び言った。
「ここは九十九市です。今の状況を、ご自分てご確認ください。私はここに居ますので、夕方までにはお戻りください」
 メイドは地図とカードを差し出した。
「わ、わかったわ……」
 蓮子は地図とカードを受け取って事務所を後にした。

 九十九市内――。

 蓮子はメイドから手渡された地図を頼りに、街中を探索していた。
 街はそれなりに活気があって、人混みもそれなりだった。
「ここがカフェテリアで、ここが病院……」
 蓮子は見知らぬ街を歩き続けて一時間。少し小休止をとることにした。
 ちょうど、近くを歩くとコンビニが目に入った。
 コンビニに入店すると、「いらっしゃいませ」と若い女性の店員が、元気よく挨拶する。
 蓮子は菓子パンとミネラルウォーターを買うことにした。すると、ふと蓮子は思った。
(これって、どこのメーカーかしら……? そもそも、このコンビニ自体知らないわ)
 そう思いながらも、レジへ向かうと、つい自分のサイフを空けてしまった。うっかりしていた蓮子は改めて、メイドから手渡されたカードを取り出して店員に渡した。
 すると店員が訊ねてきた。
「あの、お客様。このカードをどちらで?」
 蓮子は急にあたふたとしだした。
「え、使えないの?」
 店員は言った。
「いえ、そうではございませんが、お客様のものではないので、一応……」
 蓮子は慌てだした。余計に怪しまれるものだが、はっきりとカードの経緯を答えた。
「メイドから借りたカードだけど、使えるって……」
 困っている蓮子に、店員が反応した。
「もしかして、あのメイドのお知り合いですか? 色白の?」
 気まずさの中、蓮子は頷いた。
「……うん。そうだけど。本人じゃなきゃ駄目よね。いいのよ。商品は戻――」
 蓮子が言い終える前に、店員は頭を下げた。
「大変失礼致しました。ただいま、ご精算させて頂きます。全部で二百三十五ポイントのご使用でよろしいでしょうか?」
 話が通った。普通ならば、本人のみが使えるはずなのに、カードが使用可能だった。不思議に思ったが、不正はしていない。
 蓮子は「はい」と応えた。
 店員が精算する中、メイドの信頼性に驚いた。
 カードの盗難を疑うことなく、レジが通る。蓮子を信用しているのではなく、明らかにメイドを信用している証拠だった。
 そんなことを思いつつも、商品を受け取った。
「ありがとうございました」
 蓮子はコンビニ近くのベンチに座り、クリームパンを食べながら、地図を見渡していた。
(ここが日本なのは間違いないわ。でも、聞いたこと無い地名に、建物、乗り物、飲み物……まるでパラレルワールドに居るみたいな……そうか!)
 口に残りのパンを詰め込み、一気にミネラルウォーターを飲み干した。
 勢いよく立ち上がった蓮子は、コンビニのごみ箱にごみを捨て、急いで事務所へ戻った。

 事務所――。

 バタバタと事務所に入るや否や、大声でメイドに叫んだ。
「わかったわよ。すべてが!」
 息を切らしながら、ドタドタと部屋に入って、メイドの居る応接間まで来た。
 メイドは手にしていた紅茶のカップを置き、慌てる様子も無く、蓮子の呼吸の乱れを整うまで待った後、ようやく応えた。
「お分かりになられましたか?」
 呼吸を整え、蓮子は応えた。
「ええ。ハッキリと。これは並行世界、パラレルワールドよ」
 メイドは淡々と応えた。
「違います。ここは宇佐見様の住んでいた世界で間違いありません」
 蓮子は困惑する。
 今は自分の世界に居ることを。
 すると、蓮子はもう一つの可能性を言った。
「えっ……? あ、じゃあ、境界を越えた?」
 メイドは態度を変えることなく、また応えた。
「ですから、世界の遷移はしておりません」
 蓮子の結論はバッサリと切られてしまう。
 完全にわからなくなっていた。
 混乱しそうな蓮子は声を上げてメイドに訊ねた。
「ああ! もうっ! じゃあ何だっていうのよ」
 メイドは立ち上がって頭を下げた。
「申し訳ございません。詳しいことはわかりませんが、この世界を中心に入れ替わっている……というのが私の推測です」
 蓮子は反応する。推測という言葉に。
「推測? 結論が出ていないじゃない」
 メイドは再び頭を下げた。
「はい。私達もこの世界に偶然来たに過ぎません」
 蓮子は驚く。
「えっ? あんたは私達の世界の住人じゃないの?」
 メイドは顔を上げ、はっきりと応えた。
「はい。別世界から来ました。というより、不可抗力ですが」
 蓮子は混乱しそうな頭で考えた。
「ってことは……境界越えは私ではなく、みんなが境界を越えた……?」
 蓮子の推理も、簡単に折られてしまう。
「それも推測です」
 推測が推測を呼ぶ。お手上げだった。
「もう、わけわかんない!」
 メイドは、蓮子を冷静にさせるため、一緒に状況整理し始めた。
「では、少し整理しましょう。この街は?」
 蓮子は応えた。
「九十九市」
 蓮子の語尾が荒かった。
 しかし、メイドは冷静に頷いた。
「正解です。この街の通貨は?」
 その問いはわからない。買い物はポイントで清算した。
 蓮子はカードの件を思い出した。
「わからないわよ。っていうか、カードは本人だけでしょ。まあ、あんたが信頼されてるからよかったものの」
 蓮子の気も知らず、メイドは答えを言った。
「通貨は円のままです。しかし、紙幣は変わっています。カードはそれを承知してのことです」
 メイドの計算された行動に、蓮子は少し拗ねた。
「……意地が悪いわ」
 脱線した話を戻して、メイドは続けた。
「最後です。この世界が変わったのは、何かしらの理由があります。たとえば、先ほど宇佐見様がおっしゃられた、境界越えなど……」
 すると、蓮子は、はっとした。
「まさか……メリーの仕業……?」
 珍しく、メイドが不思議そうな顔をした。
「……メリー?」
 メイドの問いを無視して、自分の携帯電話を取り出した。そして、電話をかけた。
 間もなくして、メッセージが聞こえた。
「……おかけになった番号は、電波の届かないところにいるか、電源が入っておりません……」
 電話は繋がらない。
 アナウンスが流れる電話を蓮子は切った。
「やっぱり駄目。……メリー……」
 メイドは、ゆっくりと訊ねた。
「宇佐見様。その、メリー様とおっしゃる人物は?」
 すると蓮子は急に慌てだした。
「えっ? ああ、友達よ。友達。大事な……」
 メイドは簡潔に言う。
「心配ですか?」
 メイドの応えに、蓮子はゆっくりと頷いた。
「……うん」
 蓮子の心配をよそに、メイドは話を切り上げた。
「宇佐見様。今日の所はこれくらいにしておきましょう。そろそろ約束の時間です」
 そう言ってメイドは事務所のブラインドを下げ始めた。
 少し薄暗くなってきた部屋で蓮子は訊いた。
「約束? 何の?」
 メイドが廊下の非常灯を点けて、蓮子に訊ねた。
「お忘れですか? 料理長の下で働くというのを」
 廊下に出て、蓮子は腕時計を見た。針は十七時過ぎを回っていた
「そ、そうだわ。いくら寝床があっても、食べられなければ、意味が無いもの」
 メイドは諭すように言った。
「働かざるもの、食うべからずです」
 蓮子は同意してメイドに続いた。
「わかってるわ。さあ、行きましょう」
 ビルを後にして、二人は豪華客船へ向かった。

 豪華客船レストラン厨房――。

 料理長は盛大に笑って言った。
「はっはっはっ。これはお似合いだ」
 厨房に来るや否や、着替えを終えた蓮子が、不貞腐れていた。
「な、何でギャルソンの格好なのよ……」
 ギャルソン……料理の給仕人で、レストランではボーイなどの名称で親しまれている。
「お似合いです。宇佐見様。それから女性はギャルソンヌが正しいです」
 メイドに言われると、自分の性別を否定された気がする。
「茶化さないでよ。それに何で男物なのよ」
 不機嫌の理由は、給仕服が完全に男性用だったということだ。蓮子は女性用ぐらいあると思っていた。目の前のメイドがその証拠だ。
 料理長は、なだめることも無く、現状を伝えた。
「うちはこの通り男ばかりの職場だ。悪く思うな」
 蓮子は困った。
「それは無いですよ、料理長」
 料理長は蓮子の肩をトンとたたいて言った。
「これから仕事はその格好だ。さ、早速言って来い」
 蓮子はさらに困りだした。
「ま、まだ何も教えてもらってないんですけど……」
 ホールに押し出されるや否や、すぐに同じ格好の男性の先輩が駆けつけてきた。
「あのテーブルに有るの、片付けて。それから、その後すぐこっちに戻ってテーブルに運んで」
 先輩が蓮子に指示すると、蓮子は慌てて応えた。
「は、はいっ!」
 先輩は付け加えた。
「慌てず、騒がず、急がずだよ」
 蓮子のデビューである。
「り、了解!」
 蓮子はテーブルの食器を片付けだした。
 自分でもわかっている。音を立てず、速やかに撤収する。
 しかし、思うようにはいかない。すると、別の先輩が駆けつけて手伝ってくれる。
「ここまでは、僕がやるよ。君はこれをお願い」
 蓮子は食器を乗せたトレイ受け取り「はいっ」と返事をし、一生懸命片づけた。
 その後も、指示を仰ぎつつ仕事に従事していった。手探りながらも、先輩のサポートもあってか、思いのほか状況に順応していた。

 レストラン、休憩室――。

 時間は定かではないが、客が引けた頃、蓮子はシフトの交代となった。
 蓮子は休憩室で一息入れていると、一緒にいる先輩が親しげに話しかけていた。
「へえ。蓮子って言うんだ。よろしく」
 最初に蓮子に指示、補助を行っていた先輩である。年は蓮子と近いのだろうか、気さくに話しかけてくれている。
「さっきは、ありがとうございます。まだ不慣れなものですから」
 先輩は笑って言った。
「そりゃそうだよ。今来たばかりだからね」
 蓮子も「そうですね」と、つられて笑っていた。
 笑い声が広がる中、部屋に料理長が入って来た。蓮子の様子を見に来たようだった。
 料理長に気づいた二人は、「お疲れ様です」と挨拶した。
 蓮子の元気そうな様子に安心したのか、料理長も話に入る。
「なんだ。もうナンパしているのか。お前は手癖が悪いからな」
 料理長が、男性に注意を促した。男性は料理長にも、口調を変えずに言っていた。
「可愛い子を見たら、ほっとけないのが、オレの主義ですから」
 料理長も気にすることなく、男性に言った。
「なら、お前は常におせっかいな人間だな」
 男性が、したり顔で応えた。
「失礼ですね。オレはただ、このレストランに咲く一輪の花を――痛たたたっ!」
 料理長は男性の耳を引っ張った。
「そんな暇があるなら、あっちで手伝いしてこい。誰が休んでいいと言った」
 男性はごまかすように言った。
「いや、蓮子も休みだったから、つい……」
 料理長は、男性の太股を叩いて、低いトーンで言った。
「……斬り落とされたいのか?」
 男性は勢いよく料理長から離れた。
「ひ、ひえ〜っ! 料理長は冗談が通じないから、怖ぇ〜のなんの。それじゃ、さいなら〜っ!」
 男性はそう言い残して足早に部屋を出て行った。
「まったく、あのバカが」
 蓮子は訊ねた。
「あの人。いつもあんな感じなんですか?」
 料理長は振り向いて、応えた。
「まあな。っと、ここは詫びるべきだったな。すまんな蓮子」
 蓮子は首を横に振った。
「とんでもない。私は嬉しいですよ。普通に話ができて」
 仕事も不安だったが、人間関係も何とかやっていけそうだと蓮子は思った。
 料理長は忠告するように言った。
「だが、オレの目の黒い内は、お前を渡すわけにはいかんな。ここにいる連中には気をつけろよ」
 まるで父親のような発言に、蓮子は笑った。
 男ばかりの職場なのは違いないが、少なくとも良くしてもらっていることには変わりない。
 蓮子は、改めてお礼と挨拶をした。
「ありがとうございます、料理長。これからお世話になります」
 料理長は言った。
「ああ。そういうときは『今後ともヨロシク』と言うんだ。それから敬語は禁止だ」
 戸惑いながらも、蓮子はそれを訊き入れた。
「え、え〜っと。今後ともヨロシク……料理長」
 料理長は大きく頷いた。
「それでいい。この客船の連中は、家族みたいなもんだ。みんな素性が知れないがな」
 蓮子は疑問を投げかけた。
「そうなの? じゃあ、名前を訊くのもタブーってやつね」
 料理長は、仕事を切り上げさせた。
「そういうことだ。さあ、今日はここまでだ。後は帰ってゆっくり休め」
「ありがとう。料理長。それじゃ明日」
 蓮子が頭を下げると、料理長は、その場を去って行った。
 すると、入れ違いにメイドが蓮子のもとへやって来た。
「宇佐見様。事務所まで、私がお送りします。よろしいですか?」
 子供扱いでもされたのか、蓮子は手を振って拒否した。
「大丈夫、大丈夫。場所は分かっているから」
 メイドは、理由を付け加えて、再度訊ねた。
「また、襲われてもよろしいので?
 明るかった蓮子の声が曇る。
「う……それは」
 メイドはボディーガードも兼ねているということだった。
「着替えが終わりましたら、一声おかけください」
 メイドは部屋を出て行った。
(確かに、あれは、ちょっとしたトラウマよね……)
 それでも今は安心できる。そう思いながら、ロッカールームへ向かった。
 更衣室で自分のハンドバッグを持った瞬間、あることに気づいた。
 バッグの外ポケットに入れていた、携帯のランプが光っていた。蓮子は携帯を手にして確認すると、留守番電話が入っていた。
 蓮子は思わず声を出した。
「メリー!?」
 留守番電話はメリーだった。蓮子は留守番電話サービスに繋いだ。
 待つこと数秒。メリーの声が聞こえる。
「……蓮子? ごめんなさい。用件だけ説明するわ。今、大変なことになっているの。しばらく、この世界へ戻れない……ううん。二度と戻れないかもしれないけど、蓮子。貴女に会えてよかった。強く生きるのよ……ありがとう……」
 留守番メッセージはそれだけだった。
 メリーのメッセージを聞いた蓮子は、そのまま外へ飛び出した。
 文字通り飛び出した蓮子に気づいたメイドは、蓮子に訊ねた。
「宇佐見様。一声おかけしてと、おっしゃったはずですが?」
 メイドの声など聞こえるはずもなく、蓮子は客船の外へ向かった。メイドもそれを追いかける。
(メリーだわ……私に会いに来たんだわ……私に……!)
 すると、メイドが目の前を遮る形で、蓮子の頭上を宙返りして現れた。
「宇佐見様。どちらへ?」
 蓮子はそれを払い退けようとした。が、その腕をメイドに取られてしまう。メイドの方が力強かった。しかし、それに比例することなく、いつもの淡々とした口調で蓮子に訊ねた。
「どちらへ?」
 蓮子はもがきながら、叫んだ。
「メリーが……っ! メリーが待っているの! メリーに会わないと……!」
 完全に我を失っている蓮子に、メイドはもう片方の手で銀のスプーン取り出して、蓮子の首筋へ近づけた。
「これが刃物であれば、宇佐見様はとうに死んでいます。もっとも、これで喉元を抉ることも可能ですが」
 そういって、メイドはスプーンの裏を強く押し当てた。蓮子は「ゲホゲホッ!」と苦しそうにむせると、観念した。
「メリーがっ……メリーが……っ」
 膝から崩れ落ちる蓮子を、抱きとめてメイドは謝罪しながら、訊ねた。
「手荒なことをして、申し訳ありません。話していただけますか?」
 蓮子は泣きながら、そのまま話しだした。
「私の大切なパートナーから連絡があったの……けど、もう会えないって……」
 メイドは蓮子に立ち上がるように、抱き起こすと、提案を持ちかけた。
「宇佐見様。一度、戻りましょう。ご主人様にお話していただけますか?」
 蓮子は、黙って頷いた。
「それがよろしいかと。さあ、参りましょう」
 そして、メイドの手を借りながら、客船の船長室へやって来た。

 豪華客船、船長室内――。

 船長は蓮子の異変に気付くと、メイドに目をやった。メイドが頭を下げ、事の顛末を聞き、理解した。
 本人の口から聞くため、船長が蓮子に訊ねた。
「なるほど。パートナーから連絡があったというのだね」
 蓮子は俯いたままだった。すると、メイドが代わりに応えた。
「宇佐見様の話では、もう会えないとのことです。おそらく、この世界に居ないものかと」
 メイドの発言に、蓮子は声を荒げた。
「あんたに何が分かるっていうのよっ! メリーはこの世界に居るわよ、絶対に!」
 船長は困った顔をして、蓮子に注意を促した。
「ここで騒いでもらっては困るのでな。もう少し冷静に話をできんかね?」
 すると、メイドはスプーンを取り出して、蓮子に差し向けた。
「極論を言います。ここで死にますか?」
 メイドの圧に蓮子は恐怖心を思い出して、黙ってしまった。
「よろしいです。ご主人様? アレはいかがでしょう?」
 船長は「うむ」と頷いて、マントの内側から、あるものを取り出した。
「宇佐見君。これを使うといい」
 蓮子に差し出されたもの、それは拳銃だった。それも女性の手には少し大き目な。
 疑問に思う蓮子に、船長は訂正を加えた。
「これは拳銃型のコンピュータだ。役に立つはずだ」
 しかし、蓮子は受け取らなかった。
「……要らないわよ」
 船長はまた困った顔をして、わざとらしく言った。
「……そうか。これは特別な周波数で連絡出来る機能を持っているのだが……仕方ない。必要無いのなら――」
 蓮子の態度が急転した。
「メリーと連絡が取れるの!?」
 蓮子は船長に言い寄ると、船長は本当に困った顔をしていた。
「ああ。勿論だとも。ただし、宇佐見君しだいだが……」
 情緒不安定になっている蓮子に、メイドは注意を促す。
「宇佐見様。少し落ち着かれては?」
 蓮子は船長から離れ、謝罪した。
「え、ええ……ごめんなさい。それで、どうすればいいの?」
 船長は、咳払いし、改めて蓮子に拳銃型コンピュータを蓮子に手渡した。
「何、難しいことはない。普通に電話をかける要領で構わん」
 船長は説明を始めた。
「まず引き金を引いて――」
 蓮子が引き金を引いた瞬間、「パァン!」と拳銃から光弾が発射された。光弾は誰にも当たることなく消えたが、蓮子は驚きと怒鳴りが混じった声をあげた。
「ほ、本物の銃じゃない!?」
 船長も驚いた。
「む……間違えた」
 蓮子は船長に銃を返すと、船長は再びマントから取り出した。
「少し古いが、これを使いといい」
 今度は液晶画面を直接指で操作出来る、コンピュータだった。船長は確信を持って蓮子に手渡した。
 蓮子が液晶画面を覗くと、二つの角の折れた青いキャップ、コート、ブーツを装飾とした雪ダルマのようなキャラクターが手を振っている。そして、そのキャラクターにふきだしが出ていた。「連絡する?」と。
 ガイドパネルを見ながら蓮子はメリーの電話番号にかけてみた。
 しばらくすると、かすかに話声が聞こえた。通話が可能だった。
「メリー!? 今何処に居るの? 会いたいの!」
 大声で叫ぶと、反応があった。
「……ごめんなさい蓮子。今はそれどころじゃないの。でも、私の留守電は聞いたということね。よかった……」
 蓮子は知っている。紛れもなくメリーの声だった。
 興奮気味で蓮子は訊ねた。
「よくないわよ! あれで最後なんて言わせないで! お願い、何処に。何処にいるの!?」
 すると、向こうでメリーが誰かと会話している様子が伺えた。
「……はい。私が前衛に回ります……いえ、こちらの問題です……」
 蓮子の声は大きくなっていく。
「メリー? 誰と話しているの? 応えてよっ!」
 慌ただしい様子のメリーだったが、柔らかい口調で諭すように蓮子に言った。
「蓮子……生きていたら、また会いましょう。それじゃあね。貴女の声が最後に聞けてよかった……」
 ノイズが入り混じると、ザーっと言う音にかき消され、プツンと声が途絶えた。
「メリー……? メリー……っ!? メリー!!」
 通信は無情にも切れてしまった。
 蓮子は泣き崩れた。
「そんなのって……そんなのって……ないわよ……」
 するとメイドが非常識とも言える言葉を、蓮子に放った。
「よかったではありませんか。お声が聞けて」
 蓮子はメイドを睨みながら、怒鳴った。
「何がよかったのよ! メリーは! メリーは向こうの世界に居るじゃない!」
 メイドは続けて言った。
「ですから、最後に話ができて良かった。そう、おっしゃったはずです」
 メイドの無神経な発言に苛立ち、蓮子はメイドの顔を叩こうとした。しかし、あっさりと片手ではじかれ、蓮子の喉元に再びスプーンが突きつけられた。
 メイドは不思議そうに訊ねる。
「何を怒っていらっしゃるので?」
 メイドの無神経さに触発されたのか、自分でもどうすればいいかわからなくなった。
「殺すなら、殺せばいいじゃない。どうせ、もうメリーには会えないから……」
 メイドの平手が空を切った。

 バシッ……!

 メイドは蓮子の頬を叩いた。加えて、諭すように応えた。
「貴女を殺したら、メリー様はお喜びになるでしょうか?」
 身体中の力が抜け、蓮子は膝から崩れ落ちた。
「どうにもならないわよ……もう……」
 メイドは蓮子の手を取り、立ち上がるよう催促した。
「……残念ですが、宇佐見様の命は、私が預かってます。死ぬことは許されません」
 蓮子はメイドに歯向かう態度を変えなかった。
「殺そうとしたくせに、よく言うわ」
 すると、船長はパイプに火を点ける素振りを見せ、蓮子に提案した。
「外に出るといい。少し風に当たると、頭が冷えるだろう」
 それを訊いた蓮子は、頷けるはずも無く、メイドに連れられて、船のデッキへ向かった。


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 豪華客船、デッキ――。

 メイドは蓮子のことを考慮してか、あまり人気が少ない所で、蓮子を休ませていた。蓮子は膝を抱えたまま、黙って座っていた。
 メイドもまた、蓮子の近くで黙って立っていた。
 互いにふり向くことなく、会話も無い。ただ、時間が過ぎていくばかりであった。
 すると、蓮子が聞こえるか聞こえないかぐらいの、小さな声で呟いた。
「二十一時三十二分……三十四秒……」
 メイドはその呟きに反応した。
「……どういう意味ですか?」
 蓮子は空を見上げていた。
 空には星が散りばめられている。雲の少ない夜空だ。
 蓮子は再び呟いた。
「二十一時三十二分……四十五秒……」
 メイドは腕時計を確認した。蓮子の言った時刻ぴったりだった。メイドはまた訊ねた。
「……何故、時間がわかるのです? それも誤差の無い時間が」
 蓮子は深く呼吸し、穏やかな表情で視線をメイド向けて応えた。
「私の能力よ。時間と場所がわかる能力。何の役にもたたないけどね。メリーにいつも言われてたっけな。『時間が分かるなら、遅刻するな』って」
 蓮子の能力について、メイドは訊ねた。
「それは、宇佐見様だけの力で?」
 蓮子は立ち上がって、お尻の埃を払いながらメイドに応えた。
「ええ。そうよ。家族も知らないわ。この能力を知っているのは、メリーと……あんただけね」
 そういって蓮子が微笑むと、メイドは珍しい言葉を発した。
「ありがとうございます。宇佐見様のお力がわかって、私は嬉しいです」
 感謝と喜びの言葉だった。普段の淡々な口調、冷徹な態度はまるで無かった。それでも表情は変わっていなかったが、蓮子は驚いた。
「へえ。あんたでも、そういうこと思うのね。てっきり人形みたいな奴だと思っていたけど」
 人形という蓮子の言葉に対して、メイドはこう言った。
「否定はしません。私自身、何者か分かっていませんから」
 行き過ぎた発言に、今までのことを踏まえて、蓮子は謝罪した。
「……ごめん。変なこと言って。でも、あんたも悪いのよ。誤解されやすいタイプでしょ?」
 蓮子はメイドにも非があると付け加えた。
 しかし、メイドの態度は変わらない。
「よく言われます。ですが、気にしておりません。私は私ですから」
 良くも悪くも、メイドの一本気な気質を羨んだ。今の自分とは違う。そう思いながらも、メイドに注意も促した。
「そっか……芯が強いのね。でも、少しは気にしなさいよ。悪い奴ではないんだから」
 メイドは頭を下げて、礼を言った。
「お心遣い、感謝します。宇佐見様。それで、これからどうなさるおつもりで?」
 すると、蓮子は力強く応えた。
「メリーを……探すわ」
 メイドは訊ねた。
「どうやって?」
 蓮子は、語尾を強めて聞き返した。
「あんたが何とかしなさいよ。それでもメイドなの?」
 それに対してメイドは、瞳を閉じて、少し和らいだ口調で応えた。
「そうですね……私はメイドですから。こちらでも手は尽くしますので、宇佐見様も手がかりがあれば、御一報ください」
 蓮子は少し困った口調で言った。
「手がかり……ねぇ。メリーはいつもドリーマーな人間だから、探しようが無いのが、実情なんだけど……」
 メイドは提案した。
「探偵でもなされてはどうです?」
 的外れな言葉に、蓮子は呆れ気味で応えた。
「ハァ? 何言ってんの。オーバーだわ。メリー一人の為に」
 メイドは、はっきりと応えた。
「それでも、メリー様の為なら、そうするのが宇佐見様でしょう?」
 メイドは冗談を言わない。メリーだけを探す探偵。蓮子は、一瞬探偵をする自分を想像した。しかし、テレビドラマや小説などフィクションのざっくりしたものしか想像できなかった。
 メリーの為の探偵……
 ふと、蓮子は空を見上げた。世界は違えど、星を見ていることがあるのだろうか? 違う星系の星でも見ているのだろうか? 私と一緒なら、時間も場所さえも分かるのに。そんなジレンマを蓮子は考えてしまった。
 視線をメイドに戻し、蓮子は応えた。
「……考えておくわ。でも、今日は帰って休むわ」
 今は考えても仕方ない。休むのが先決だ。
「わかりました。それでは……」
 メイドはスッと近寄り、蓮子をお姫様抱っこの要領で抱き上げた。突然のことに、蓮子は声をあげた。
「わわっ! ちょっと、何するのよ!?」
 じたばたする間もなく、メイドはそのまま、走り出し、船体から飛び降りて岸に着地した。
 何事もなく、メイドはまた走り出す。
「宇佐見様の命は、私が預かっております。万が一のことがあったら、メリー様に申し訳が立ちません」
 蓮子は慌てた。気恥ずかしいのもあるが、振り落とされる可能性も思った。
「だからって、こんな格好――わっ!」
 メイドはそのまま走り去り、高く跳躍し建物の屋根伝いに跳んで行った。
「ご安心を。私はメイドですから」
 優しい口調で告げるメイドに、蓮子は安心した。そう、彼女はメイド。メイドなのだ。良くも悪くも、メイド……
 蓮子はメイドに身を委ねることにした。
 闇夜の上空を飛び交う二人。岐路を辿りながらも、メイドを蓮子は思っていた。
(やっぱりこの人、普通じゃない……)
 そんなことを考えていると、不思議そうにメイドが訊ねた。
「どうかなされましたか?」
 メイドの息が顔にかかった。顔が近い。さらに身体を密着している。ちょっとしたお姫様気分だ。普段そんな扱いなどされたことのない蓮子は、思わず赤面した。
 それを思うと、蓮子は慌てて否定した。
「な、なんでもないわよっ」
 メイドは本当に不思議そうだった。
「……そうですか? では、しばらく夜景を御覧になっていてください」
 蓮子は呆れた。そして、思わず口にした。
「あんたって……やっぱりメイドだわ」
 メイドはゆっくりと応えた。「はい。メイドです」と。

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仮初の探偵 -誕生編 ACT01-